1 設立準備

 福岡都市圏を含む北部九州の増大する水需要に対処するには、筑後川水系の総合的な水資源開発及び河川水の利用がなくては解決できないことから、昭和39(1964)年10月、筑後川が水資源開発促進法に基づき開発水系に指定されました。昭和41年2月には、「筑後川水系における水資源開発基本計画」が閣議決定され、両筑平野用水事業として江川ダムの建設が開始されました。さらに、昭和45年12月には、基本計画の一部変更により寺内ダムの建設が追加され、これにより江川ダムと寺内ダムの二つのダムを総合利用することで都市用水3.65㎥/sが、筑後川において新たに開発されました。
 当時、福岡都市圏の水需要は、経済の高度成長期に入った昭和30年代後半(1960年代)から人口の集中、生活の向上、産業・文化の発展等に伴って年々増加を続けていましたが、地理的条件から近郊にこれらの需要を満たすことができる地下水や河川等の水源に恵まれていませんでした。したがって福岡都市圏における抜本的水源対策としては、筑後川等からの導水に頼らざるを得ない状況でした。これらの条件を踏まえ、昭和46年6月、福岡地区市町村連絡会議(現:福岡都市圏広域行政推進協議会)の中に福岡地区4市18町の水道担当責任者による、福岡地区広域水道推進連絡協議会(以下「連絡協議会」という。)を結成して、筑後川取水の実現について検討しました。
 連絡協議会における検討の結果、事業範囲を用水供給事業とし、県において対応した方が適当であるとの結論から、福岡地区市町村連絡会議は、福岡県に対し、昭和46年12月、福岡地区の広域水道事業を県営で行うよう要望書を提出、翌昭和47年2月には、地区代表市町長が県営用水供給事業の実施について陳情を行いましたが、県は「水道は、本来市町村の固有事務であり、水配分や水源の確保については県も援助するので企業団でやってはどうか。」と不採択となりました。
当時、既に、山神水道企業団(昭和46年4月1日)、久留米広域上水道企業団(現:福岡県南広域水道企業団(昭和46年10月30日))が設立されており、県営用水供給事業の実現は困難であるとの判断から構成市町による企業団方式で進めることになりましたが、圏内各市町間で水需要に緊急度の差があり、水価の問題、先行投資に対する負担等が障害となって、設立についての意見が集約されませんでした。

 

2 福岡地区水道企業団の設立

   その後、筑後川総合開発事業の進捗状況から、受入体制を早急に整備する必要に迫られ、昭和48年2月、福岡地区4市18町の市町長会議において


(1)水道用水の広域的有効利用と諸問題の共同処理

(2)施設における重複投資の回避

(3)施設の配置及び管理運営の効率化

(4)国庫補助の導入

(5)筑後川開発の受入体制の整備


 の5項目の理由により、筑後川等を水源とする用水供給事業を共同処理するための一部事務組合として企業団を設立し、当面筑後川からの取水を受け入れる体制を整えるべきであるとの結論に達し、企業団の設立が方向づけられました。当時、糸島郡の前原、志摩、二丈の3町及び宗像郡の福間、玄海、宗像、津屋崎の4町は、当面の水需要との関係で第1次の水配分からは除外されていましたが、将来の水需要を考慮して企業団には当初から参加することになりました。
 同年3月、福岡都市圏4市18町の長による福岡地区水道企業団設立準備委員会が結成され、事務局を設置して、企業団設立許可申請書の作成作業等の具体的な設立準備に入り、規約案、企業団経営の基本となる条例案、市町別水配分案、事業計画案等について検討が進められました。
 同年5月には、福岡県より江川・寺内ダム及び合所ダムの水配分163,100㎥/日を受け、同時に各構成団体別の水配分が内定し、企業団の設立について福岡都市圏内22市町の議会の議決を経て、地方自治法第284条第1項の規定に基づき、同年5月31日付で福岡県知事に設立許可申請書を提出しました。 
 昭和48年6月1日福岡都市圏の4市18町(現:6市7町1企業団1事務組合)を構成団体とする「福岡地区水道企業団」が設立され、用水供給事業を行うことになりました。
 なお、福岡地区水道企業団水道用水供給事業の設置等に関する条例については、昭和48年6月の初議会で議決されました。
同年7月には、創設事業の厚生大臣認可を得て事業に着手し、同年度中に牛頸浄水場の用地買収を終了し、昭和49年度から浄水・送水各施設の建設を開始しました。